消えた信長の遺骨
6月2日はご存じ「本能寺の変」が起こった日です。京都市内には志半ばで倒れた織田信長を弔う墓所が数多くあります。でも、なぜ、一人の人物の墓所がこんなにたくさんあるのでしょうか?それは、信長の遺骨が見つからなかったからかも知れません。
天正10(1582)年6月2日未明、信長は本能寺で家臣の明智光秀に討たれます。信長の最期について、イエズス会のフロイスの記録には、「信長は、手と顔を洗い終えて、手ぬぐいで清めていた所、背中に矢を射かけられたが、これを引き抜き、薙刀でしばらく戦った。が、腕に銃弾を受けると自ら部屋に入り戸を閉じ、切腹。その後、館は火に包まれた」とあります。当時は大将の首を挙げることが求められた時代。光秀は信長の遺骸を必死に捜索させますが、家臣に「敵に遺骸を渡すな」と遺言した信長は、髪の毛一本残さなかったとも言われています。消えた信長の遺骨―。しかし、信長の墓所は全国に点在します。京都市内だけでも、1.中京区の本能寺、2.紫野、大徳寺の塔頭・総見院、3.東山の大雲院、4.妙心寺の塔頭・玉鳳院、そして、5.上京区にある阿弥陀寺等、数多く伝わっています。
1.の本能寺には、信長の廟所の他、本能寺戦没者の供養碑があり、信長ゆかりの宝物も充実していますが、実は、この地は本能寺があった場所ではありません。実際に信長が倒れたのは、二条城の南、現在の市立堀川高校の学舎がある辺りです。本能寺の変で寺が焼けた後、天正17(1589)年に豊臣秀吉による区画整理で現在の地に移されているのです。その点が、想いを馳せたい人にとっては少し心に引っかかるかも知れません。
3.の大雲院は、息子・信忠の法号にちなんだ名前の寺ですが、この寺も昭和47年に現在の地、八坂神社の南に移っています。
4.の玉鳳院にある信長の墓は、織田氏家臣・滝川一益が妙心寺山内に設けた塔頭・大雲院(3.とは別)に信長親子を祀り、明治以後になって、大雲院消滅とともに現在地に移されたもの。こうしてみると、意外と史蹟は同じ場所にあり続けるのは難しいようですね。
また、2.の総見院は、本能寺の変の後、信長の後継者争いが激しくなる中、秀吉が「我こそが後継者」とアピールするため、その年の10月、信長の百箇日の法要を盛大に執り行ったといわれる寺です。法要は七日間に渡り、棺には遺骨の代わりに信長の木像が納められたとも伝えられています。境内には信長のお墓を中心に、息子や正室・帰蝶(濃姫)達の墓もあります。普段は非公開ですが、毎年秋頃、特別拝観ができるようです。
こちらも大変由緒あるお寺ではあるのですが、柴田勝家との権力闘争の駆け引きとして法要が行われたかと思うと、秀吉の思惑を感じてしまうのは私だけでしょうか。
その点、5.上京区の阿弥陀寺は、前述の寺々とは異なり、私は心から手を合わす事ができるお寺だと思っています。『史蹟集覧 信長公阿彌陀寺由緒之記録』によると、信長と生前より親交の深かった阿弥陀寺の僧・清玉上人は、本能寺の異変を聞きいち早く駆けつけています。そして主君の遺言に従い、遺骸を残さぬよう焼いている家臣達に出会った上人は、遺体を荼毘に付すことを引き受け、遺骨を拾い集め、衣に包んで寺へ持ち帰り供養したと伝えられています。
また、後に阿弥陀寺に信長の遺骨があると聞きつけた秀吉が、寺で法事をしたいと何度も持ち掛けてきたそうですが、上人は断り続けたと言います。上人には、秀吉の心の奥底に、信長の供養よりも信長の後継者であることを世間に喧伝する真の意図が見えたのも知れません。




