龍馬の息づかいのする街〜京都・高瀬川
鴨川のすぐ西を流れるせせらぎ・高瀬川沿いは、今、新緑の美しい季節を迎えています。
この辺りをつい140年程前の幕末期、ある人物が歩いていました。―坂本龍馬です。
最近、某ビール会社が「一緒にお酒を酌み交わしたい歴史上の人物は?」というアンケートをしたそうですが、男女とも第一位に選ばれたのが龍馬だったそうです。そんな龍馬が駆けめぐった京都の街を辿ってみました。
「日本(ニッポン)を今一度せんたくいたし申候」。有名なこの一文は、文久3(1863)年、龍馬29歳の時に姉・乙女宛てにしたためもの。 その4年後、龍馬はこんな手紙も書いています。「藩に仕えずして浪人しているからこそ天下の大議論ができるのである」。こちらは、龍馬暗殺の約5ヶ月前の慶応3(1867)年6月24日付。この頃、龍馬は薩摩藩と土佐藩による大政奉還に向けての交渉に奔走していました。同じく姉に宛てたもので、妻・お龍(おりょう)を含め、龍馬の周囲の人々について事細かに触れた、龍馬の人好き、手紙好きの一面を伺わせる5メートルを超える長い、長い手紙です。
実は、この手紙には、したためた場所がハッキリと書かれています。「私ハ京都三条河原町一丁下ル車道酢屋に宿申候」。それが、高瀬川沿いに今も残る創業約290年の材木商『酢屋』です。

当時、龍馬が定宿とし、京都の海援隊事務所にもした『酢屋』は、現在、創作木工芸のお店とギャラリーになっています。毎年、「混迷する日本、もし自分が龍馬だったら何をするか?」をテーマに『龍馬からの手紙』の募集もされていて、今年で15回目を迎えるそうですよ。ちなみに『酢屋』に面した通りは、現在地元の人からは龍馬通り”と親しみを込めて呼ばれています。
また、当時龍馬がこの酢屋から行き来したであろう土佐藩邸は、酢屋から南へ下がる事徒歩1分、高瀬川沿いの旧立誠小学校付近です。幕末の香り漂う高瀬川沿いをぶらぶら歩くと、きっとその距離感が分かってくることでしょう。
木戸孝允(桂小五郎)のいた長州藩邸は、酢屋から北へ徒歩5分程。現在は京都ホテルオークラになっています。
そして、薩長同盟の舞台にもなった薩摩藩邸は、現在の同志社大学今出川キャンパス辺り。現在なら酢屋から車で北へ10分弱の距離ですが、あの騒然とした幕末の京都を、御所を越えて、龍馬はどんなルートで歩いていったのでしょう…。そんな事を考えながら京都の街を歩いていると、龍馬の息づかいが聞こえてきそうになりました。
さて、坂本龍馬といえば、やはりその非業の最期が印象的ですね。
龍馬最期の地・近江屋があった場所は、阪急河原町駅から賑やかな河原町通りを北へ約5分、現在の京阪交通社辺りです。店の前には「坂本龍馬 中岡慎太郎遭難の地」と記された小さな石碑がありますが、道行く人はあまり気付いていないようです。

ところで、現在の河原町通りは大正時代に拡張されたもので、事件当時はもう少し東寄りにあったそうです。…ということは、龍馬暗殺の現場である近江屋の二階は、今、私たちが歩いている歩道の真上、アーケード部分かも知れません。そう思うと、何だかこの通りも、何となく気を引き締めて歩きたくなりますね。
こんな風に、歴史の手がかりを少しでも感じながら歩くだけで、京都の旅は格段に奥行きが出てきます。皆さんも京都の街の至る所にあるタイムスリップの装置を是非、見つけて歩いてみて下さいね。





