4月からの長期不在
地球を船で一周すると100日かかる。勿論、寄港しながらの日数である。このことは、つまり、3ヵ月余り家を留守するということになる。日本の船が出航するのは、概ね3月末から4月頭である。楽しいクルーズのためには、少々面倒なことがある。
春先、我が国では多くの契約業務が切り替わるため、ここに諸々のことが集中している。僕に関していうならば、卒業式後に大学勤務を辞めるという年だったので、諸手続の書き換えに加え、医療保険の切り替え手続きなどが切迫していた。また丁度、定期健診時期でもあり、その後に「要再検査」などの判定如何では乗船も断念しなければならないという月である。さらに、車検手続きや自動車保険の更新、雑誌の定期購読料の振り込みなどなどが重なった。しかも、誕生月が3月、4月の夫婦には、免許証の更新手続きがある。これらの書類手続きをひとつでもミスすれば、出航日を跨いでしまう。差し迫ってくる出航日を話して懇願する毎日だったことを思い出す。3月末はなにしろ、日本は慌ただしい。
ようやく日本を離れて洋上の非日常をしばらくは楽しんでいるのだが、最初の寄港地で下船して生活感に触れると、夕食のテーブルで妻達は、互いに「長期の不在」をどう対処したかを話題にし始める。黙って出てきたという方が意外にも多い。世界一周クルーズに出たという噂が近所でどう拡がるかが気になるし、ましてや土産品の数まで考えると頭が痛いので、というのが主な理由である。 通常の手順は、まず新聞を販売店に留め置いてもらうことだ。しかし、ここでも、ある夫人からは鋭い指摘を受けた。「販売店の掲示板にね、○○さんの家は7月末まで新聞休止と注意書きが書かれていたのを見たのよ。若い配達の人を疑う気はないのよ、でも、なんだか心配だわよね。空き巣にどうぞって、信号出しているみたいで」と、その一言で、何紙も購読していた方が顎を上げて空を見つめてしまった。 二番目には郵便物の話になる。幸いにも我が家は次男夫婦と義妹が近くに住んでいたので、それは取り込んでもらえた。しかし、郵便局止めにできない地域もあるらしく、仕方なくお隣さんの好意にすがったという人がいた。そう言えば、帰国して最初の仕事は、郵便物の中から重要な書類を見つけ出し、時期を逸しない処理をすることだった。3ヵ月の長さは、一度に配達された新聞の量であらためて知ることとなった。
次に電話。我が家では、留守電をセットして出たが、これはまずかった。帰国した時、「連絡をください」と5月頃に録音されたメッセージに何も返答できず終いで、申し訳ないことをしてしまった。2度目のクルーズでは、留守電はセットしないで出航した。
日本を離れても有り難いことは船上からメールが送受信できることだ。特筆すべきは、商船三井客船だけが、持ち込んだ個人使用のパソコンを無線室から発信できることだ。予め、打ち込んだ原稿を船上からそのまま送信できるし、受信した内容は自分のパソコンに保存できる。03年の時は3日置きに航海日誌をインマルサット(衛星通信)で送信していた。
住居の戸締まりでは一戸建ての方が苦労された。雨戸を閉め切るわけにもいかず、時々娘夫婦に立ち寄って空気の入れ換えをして貰っているという人。花や野菜に関しては、枯れても仕方なし、と諦め顔で笑う人。ペットはペット病院に預ける人が多かった。中には、この際きちんと躾をつけてもらおうと、愛犬を訓練所に預けた人がいた。我が家では愛犬(ボズワルド・テラパックストン・ハギワラ)は既に他界しており、2年間、妻はペットロスから抜けきれずにいた。ペットは、船室に飾った写真という身軽さだった。 さて、泥棒対策だが、兄弟家族が近くにいない家は、息子のところに金庫を持ち込んで預けたという人、敷地の広いお宅では、重要書類を壺に入れて庭に埋めたという古典的な人。空き巣被害の経験者は、泥棒が捜し易いところに多少多めの見せ金を入れて置けば、被害を多少なりとも抑えられるわよと教えてくれた。なるほどと思える対策に、笑えない話がまだまだあった。最近は、船会社側も長期クルーズ客に警備会社との期間限定の契約を斡旋しているようである。
長期不在となることで、予期しない出来事も起きた。二人の息子達には乗船を3ヵ月前に初めて告げた。次男夫婦は仕事柄、たびたび海外を行き来していたので驚く様子もなく「いってらっしゃい」となった。ところが、長男は困った顔をした。しばらく日が経ってから口ごもりながら言ったことは「日本を離れる前に、……会って欲しい人が……いるんだが……」だった。イラク戦争勃発やSARS発生で世界が不安な状態の中で出航する年だった。我々に万が一のことが起きたらと思ったのだろうか。世界一周クルーズのおかげで、長男の意中の相手を知ることとなった。晴海桟橋の見送りは、ツーカップルの顔が揃ったのだ。
クルーズに関心があるのだが、その申込に躊躇している多くの方に、是非知っていただきたいことがある。「思い立ったが吉日」という言葉があるように、まずは申し込んでしまいなさいと薦めたい。 クルーズの申込から出航まで、通常は1年以上もある。その間に起きる冠婚葬祭は、誰もが予想できにくいのではあるまいか。

世界一周という100日クルーズを例に取れば、出航3ヵ月前までのキャンセルなら、支払い済みの全額は返却されるということを頭に入れておきたい。つまり、おおよそ、クリスマスイブまで諦めないでじっと待つことである。決断はその頃まで引き延ばせるということであり、その頃までに周囲を説得すればいいということである。船室の予約は早ければ早いほうが、予算に見合ったランクが確保できるということだから。
乗船客の中には、このことを知ってか、ご主人に相談もせず、とにかく申し込んだというご婦人方が多かったことも付け加えておきたい。
ようやく日本を離れて洋上の非日常をしばらくは楽しんでいるのだが、最初の寄港地で下船して生活感に触れると、夕食のテーブルで妻達は、互いに「長期の不在」をどう対処したかを話題にし始める。黙って出てきたという方が意外にも多い。世界一周クルーズに出たという噂が近所でどう拡がるかが気になるし、ましてや土産品の数まで考えると頭が痛いので、というのが主な理由である。 通常の手順は、まず新聞を販売店に留め置いてもらうことだ。しかし、ここでも、ある夫人からは鋭い指摘を受けた。「販売店の掲示板にね、○○さんの家は7月末まで新聞休止と注意書きが書かれていたのを見たのよ。若い配達の人を疑う気はないのよ、でも、なんだか心配だわよね。空き巣にどうぞって、信号出しているみたいで」と、その一言で、何紙も購読していた方が顎を上げて空を見つめてしまった。 二番目には郵便物の話になる。幸いにも我が家は次男夫婦と義妹が近くに住んでいたので、それは取り込んでもらえた。しかし、郵便局止めにできない地域もあるらしく、仕方なくお隣さんの好意にすがったという人がいた。そう言えば、帰国して最初の仕事は、郵便物の中から重要な書類を見つけ出し、時期を逸しない処理をすることだった。3ヵ月の長さは、一度に配達された新聞の量であらためて知ることとなった。次に電話。我が家では、留守電をセットして出たが、これはまずかった。帰国した時、「連絡をください」と5月頃に録音されたメッセージに何も返答できず終いで、申し訳ないことをしてしまった。2度目のクルーズでは、留守電はセットしないで出航した。
日本を離れても有り難いことは船上からメールが送受信できることだ。特筆すべきは、商船三井客船だけが、持ち込んだ個人使用のパソコンを無線室から発信できることだ。予め、打ち込んだ原稿を船上からそのまま送信できるし、受信した内容は自分のパソコンに保存できる。03年の時は3日置きに航海日誌をインマルサット(衛星通信)で送信していた。 住居の戸締まりでは一戸建ての方が苦労された。雨戸を閉め切るわけにもいかず、時々娘夫婦に立ち寄って空気の入れ換えをして貰っているという人。花や野菜に関しては、枯れても仕方なし、と諦め顔で笑う人。ペットはペット病院に預ける人が多かった。中には、この際きちんと躾をつけてもらおうと、愛犬を訓練所に預けた人がいた。我が家では愛犬(ボズワルド・テラパックストン・ハギワラ)は既に他界しており、2年間、妻はペットロスから抜けきれずにいた。ペットは、船室に飾った写真という身軽さだった。 さて、泥棒対策だが、兄弟家族が近くにいない家は、息子のところに金庫を持ち込んで預けたという人、敷地の広いお宅では、重要書類を壺に入れて庭に埋めたという古典的な人。空き巣被害の経験者は、泥棒が捜し易いところに多少多めの見せ金を入れて置けば、被害を多少なりとも抑えられるわよと教えてくれた。なるほどと思える対策に、笑えない話がまだまだあった。最近は、船会社側も長期クルーズ客に警備会社との期間限定の契約を斡旋しているようである。
長期不在となることで、予期しない出来事も起きた。二人の息子達には乗船を3ヵ月前に初めて告げた。次男夫婦は仕事柄、たびたび海外を行き来していたので驚く様子もなく「いってらっしゃい」となった。ところが、長男は困った顔をした。しばらく日が経ってから口ごもりながら言ったことは「日本を離れる前に、……会って欲しい人が……いるんだが……」だった。イラク戦争勃発やSARS発生で世界が不安な状態の中で出航する年だった。我々に万が一のことが起きたらと思ったのだろうか。世界一周クルーズのおかげで、長男の意中の相手を知ることとなった。晴海桟橋の見送りは、ツーカップルの顔が揃ったのだ。
クルーズに関心があるのだが、その申込に躊躇している多くの方に、是非知っていただきたいことがある。「思い立ったが吉日」という言葉があるように、まずは申し込んでしまいなさいと薦めたい。 クルーズの申込から出航まで、通常は1年以上もある。その間に起きる冠婚葬祭は、誰もが予想できにくいのではあるまいか。

世界一周という100日クルーズを例に取れば、出航3ヵ月前までのキャンセルなら、支払い済みの全額は返却されるということを頭に入れておきたい。つまり、おおよそ、クリスマスイブまで諦めないでじっと待つことである。決断はその頃まで引き延ばせるということであり、その頃までに周囲を説得すればいいということである。船室の予約は早ければ早いほうが、予算に見合ったランクが確保できるということだから。
乗船客の中には、このことを知ってか、ご主人に相談もせず、とにかく申し込んだというご婦人方が多かったことも付け加えておきたい。





