インク窓をのぞきこむと、遠いあの日がよみがえる。 黒軸緑窓のペリカン万年筆
胴軸の真ん中あたりが透明になっている万年筆がある。この部分を<インク窓>とか<インクビュー>というのだが、吸入したインクの残量を把握するのに便利だ。インク窓をときどき気にしながら書き物をするのは、万年筆と会話をするようで愉しい。
神田神保町の「金ペン堂」の御主人に、モンブラン149を買ったけれど書きづらくて今は使っていないこと、細字でもカリカリしない書き味の万年筆を探していること、できればクラシカルな外見の万年筆がいいということ、そういうことを語った。すると、 「ヨンヒャクがいいんじゃないかなぁ」
という。ヨンヒャク?それってモデル番号のこと?
「ドイツのペリカンが作った400っていう万年筆です」
ショーケースから2本取り出して、試し書きをさせてくれた。
(あ、これか! これがペリカンか!)
見覚えがあった。モンブラン149の女房役というか子分のような扱いでよく雑誌に取り上げられていた。小振りで軽い。緑の縞や茶の縞があったはず…、と思いながら住所と名前を書いた。書きやすい。滑りが実にいい。細字と中細字の2本を試して、細字のほうに決めた。高校3年の秋。今から26年も前の話。

購入したのは<ペリカン400NN>の復刻版。1956年から65年まで生産されていた<ペリカン400NN>を元に、日本向けに1973年から約6年間作られた万年筆で、海外で出版されたペリカン万年筆の研究書によれば3種類生産されたとあるが、実際には4種類のバージョンがあった。
(1)緑縞
(2)茶縞(キャップ、首軸、尻軸、すべて茶色)
(3)黒縞(薄緑色のベースに黒のストライプ)
(4)黒軸緑窓(キャップ、首軸、尻軸、すべて黒無地。インク窓が緑)
私が買ったのは(3)の黒縞。(2)の茶縞がほしかったのだが完売していた。
いつもの古典古文の教員が出張とかで、代わって、エンジ色のジャージー上を着た国語の先生がやってきた。眠気も吹っ飛ぶほどの大きな声、テンポのよい説明、わかりやすいたとえ話、いっぺんで好きな先生になった。
授業の後半、練習問題を解いていると、そばにやってきて、
「キミ、ペリカンを使っているのかい?」
と尋ねられた。驚いた。この先生、ペリカンを知っている! ますます好きになった。
「私のペリカンと少し違うようだ。興味があるなら、私のを見せよう。放課後、職員室で…」
これだ、と差し出されたのが、1955年から65年まで作られていたペリカン120だった。キャップと尻軸にはクラックが入っており、天冠とクリップは違うものに交換されていた。キャップをはずすと、緑色のインク窓が目に飛び込んできた。 「インクは入れていないんだ。今はもう休ませている。この一本だけをずっと使い続けてきたんだ」
ペリカンの120には金メッキした鉄ペンがついているのだが、極細字用のペン先が、極太の線が書けるくらいに磨り減っていた。書きつぶされた万年筆を見るのは、この時が最初で最後になった。書くために作られたものが大事に大事に使われ続けた末の姿。数え切れないほどたくさんの文字を紙に書き綴ってきた果てのペン先の輝き。モノを愛した人。人に愛されたモノ。 ペリカンを手にしていなかったら、先生と出会っていなかったら、今の私はいない。
先生もその後、金ペン堂で<ペリカン400NN>の復刻版を購入された。あのペリカン120にそっくりの黒軸緑窓のペリカン。シンプルで飽きがこないのがお気に入りの理由だという。
先生のペリカンも、私のペリカンも、元気で快調なままである。ペン先はほとんど減っていない。
緑色のインク窓には、ひび割れも、くもりもなく、のぞきこむと、遠いあの日がよみがえる。
この拙文を、先月末、無冠のまま定年退職された恩師、山下憲彦先生に捧げます。






