酒の旅人・街道筋の蔵 山陰道・出雲路 その5 石見銀山探訪
一宮酒造では日本酒のほか、バラの花弁を漬け込み色や香りを抽出して、日本酒をベースに仕込んだ「バラ酒」、それに地元のサツマイモ・代官イモを使った「芋焼酎」なども造っている。「バラ酒」は首都圏に多く出荷されているが、バラブームも手伝って大ヒット商品になっている。
銀閣寺造営で見直された銀の価値
蔵の取材を終えて、石見銀山をブラブラするつもりだと話したら、浅野蔵元が現地まで車で送ってくれた。
石見銀山は14世紀初頭に周防の国守大内弘幸によって発見されたが、そのころ銀は装飾品の材料程度にしか価値がなかった。ところが足利義満が「金閣寺」を建てたのに対し、孫の義政が「銀閣寺」を建てようとしたあたりから、銀の価値は大きく変わっていく。
16世紀の初頭、大内氏は再び銀に着目、石見銀山の開発を手がけた。銀の産出量が増えてくるに従い、戦国大名たちの争奪の的になっていく。激しい領地争いをした大内氏、尼子氏、毛利氏、さらには豊臣秀吉ら権力者が加わり、石見銀山を支配下に置いていく。
特に天文2年(1533年)、朝鮮から伝わった銀の精錬法「鉛灰吹法」(なまりはいふきほう)を導入したことによって、銀の生産量は飛躍的に伸びた。それまで日本は銀の輸入国だったが、この技術によって輸出国に変わり、但馬の生野や、佐渡、出羽の院内など各地の銀生産量を合わせると、日本は世界の三分の一の産出量を誇ったという。
当時、世界に船出するポルトガルが、日本の銀を狙ったとも伝えられる。最終的には石見銀山は徳川幕府の手に渡り、天領になっていく。成熟期の慶長7〜8年ごろには、年間8000〜1万貫が生産され、年3600貫の運上銀が幕府に送られたという。徳川幕府の財政は、まさに石見銀山によって潤ったといっていい。
蔵の取材を終えて、石見銀山をブラブラするつもりだと話したら、浅野蔵元が現地まで車で送ってくれた。石見銀山は14世紀初頭に周防の国守大内弘幸によって発見されたが、そのころ銀は装飾品の材料程度にしか価値がなかった。ところが足利義満が「金閣寺」を建てたのに対し、孫の義政が「銀閣寺」を建てようとしたあたりから、銀の価値は大きく変わっていく。
16世紀の初頭、大内氏は再び銀に着目、石見銀山の開発を手がけた。銀の産出量が増えてくるに従い、戦国大名たちの争奪の的になっていく。激しい領地争いをした大内氏、尼子氏、毛利氏、さらには豊臣秀吉ら権力者が加わり、石見銀山を支配下に置いていく。
特に天文2年(1533年)、朝鮮から伝わった銀の精錬法「鉛灰吹法」(なまりはいふきほう)を導入したことによって、銀の生産量は飛躍的に伸びた。それまで日本は銀の輸入国だったが、この技術によって輸出国に変わり、但馬の生野や、佐渡、出羽の院内など各地の銀生産量を合わせると、日本は世界の三分の一の産出量を誇ったという。
当時、世界に船出するポルトガルが、日本の銀を狙ったとも伝えられる。最終的には石見銀山は徳川幕府の手に渡り、天領になっていく。成熟期の慶長7〜8年ごろには、年間8000〜1万貫が生産され、年3600貫の運上銀が幕府に送られたという。徳川幕府の財政は、まさに石見銀山によって潤ったといっていい。




