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2008/01/15

僕のアウトドア的半生 遅ればせながら自己紹介 

以前ここでEIJメンバーの紹介をした。屈強で頼もしいメンバーが揃うEIJ。それが僕の自慢であり、誇りでもあるのだが、思えば今まで僕自身の紹介はしていなかった。だから今回は少し僕の話をしようと思う。

僕は1969年に千葉県船橋市にて世に転がり出た。産婦人科で僕が生まれるのを待っていた父と兄は、先生に「今日は生まれそうも無いから帰って大丈夫ですよ」と言われ、彼らが病院を後にした直後に僕は生まれたそうだ。鉄鋼所で働く父と、その父と同じ職場で働いていた母が知り合い、後に結婚。そして後に長男が生まれ、その3年後に僕は生まれた。父はかなりの働き者だったらしく、僕が生まれて一年後には、船橋市からそう遠くない場所に庭付きの新築一戸建てを建てた。

父は群馬県前橋市で生まれ育った。戦争末期、米軍による前橋空襲の際、まだ子供だった父は、一家の貴重な米俵を担いだまま小川に掛かる小さな橋の下に逃げ、全身水に浸かりながら一晩中立ったまま隠れていた事があると、今は亡き僕の祖父が教えてくれた。父は長男という事もあり、幼少期から責任感が強くしっかり者だったとのことであった。しかしその父は、僕が幼稚園生の時に心臓発作で他界した。だから僕には父の記憶がほとんどない。僕にとっての父は、時に母であり、時に兄だった。
僕が物心付いた時、すでにうちは母子家庭だった。だけど僕は何不自由なく育った。僕には物が無くて、もしくは食べ物がなくて困ったという記憶は一切無い。僕は小学校に上がってすぐピアノを習いはじめ、週二回スイミングクラブに通い、週末はカブスカウト(ボーイスカウトの下部組織)で野外活動に没頭した。今思えば、僕の情熱のアウトドアライフは、このカブスカウトからすでに始まっていたと言える。当時の母が女手ひとつで相当な苦労をしていただろう事は、今は容易に想像がつくが、その時の僕は何ひとつ判ってはおらず、ただ無邪気に甘えていたように思う。

常に遊ぶ事ばかり考え、実際に野外で遊んでばかりいた僕は勉強にまったくといっていいほど興味が無かった。それでいて動物への興味は尽きず、小学校時代だけで、僕はうさぎ、にわとり、猫、九官鳥、小鳥、ヘビ、カメ、イモリ、その他もろもろの小動物や昆虫を次から次へと飼った。特に夏はカブトムシやクワガタを獲りに毎朝のように山に入り、川や沼には釣りをしにせっせと通った。中学校に入って軟式テニスを始めたが、やはり暇があれば森や川、そして野に入っていた。ボーイスカウトではロープワークに目覚め、様々な結び方を学んだ。僕の興味の対象は、当時から野外にしか存在しなかった。

高校に入り、僕は波乗りを始めた。兄が波乗りをしていたし、映画「ビッグウェンズデー」を観て影響を受けたのだ。僕はすぐに波乗り特有の浮遊感覚とスピード感の虜となった。山より海に行く回数が自然と増えていき、この時期から僕は波乗り雑誌で見るオーストラリアという国に非常に興味を持つようになっていった。ナットヤングやジェリーロペスのようなレジェンド的サーファーに強い憧れも抱いていた。そして僕は心身共にサーファーとなっていった。恐ろしい事に、僕には高校で勉強したという記憶がほとんどない。思い出されるのは海の記憶ばかりであった。

それでも無事高校を卒業した僕は、英語の専門学校に行った後、夢にまで見たオーストラリアへの留学を果たした。そして後に、この国で僕のアウトドア人生が開花する。トータルで8年もの間オーストラリアに滞在し、アウトドアライフの真骨頂を迎える事になるとは、この時の僕はまだ知る由も無かった。
南半球が誇る隔離大陸オーストラリア。オーストラリアの自然は、そのイメージそのままに雄大で、都市部からちょっと離れるだけで荒野が拡がり、前人未到の山や海岸がまだ到る所にあった。豪州に渡ると僕の胸は一気に高鳴り、渡豪当初から激しく自然と戯れた。波乗りは日常と化し、授業が休みの週末には率先して野や山に入っていった。手つかずの自然の中で自己判断しながら厳しい自然と接していく。自分でレールをひき、その上も自分で進んでいくオーストラリアのアウトドアスタイルは、まさに大人びた険しい世界であったが、僕にはとてもフィットした。





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