ベルリンの音楽事情・前編
東西統一ドイツのシンボル、ドイツ最大の芸術の都、ベルリン。無数の劇場が存在するが、その中でも3つのオペラハウス、2つの素晴らしいコンサートホールを紹介しよう。
まずはつい先日まで来日公演を行っていたベルリン国立歌劇場。正式名称を、シュターツオパー・ウンター・デン・リンデン(Staatsoper Unter den Linden)という。ウンター・デン・リンデンというのは、「菩提樹の下」という意味で、旧東ベルリンのシンボルのような大通りの名前。地元の人達は、愛情を込めて、リンデン・オパー(菩提樹歌劇場)というような言い方もする。シュターツオパーの方は直訳すると、国立歌劇場となる。しかし、現在ドイツでは国立のオペラハウスは存在せず、すべて州からの助成金で運営されているため、本来は州立ということになる。実際に州立歌劇場と表記されることも多いが、私は国立と呼んでいる。それはこの劇場が開場した当時、プロイセン王国の宮廷劇場だったからである。
ベルリン国立歌劇場外観正面
ベルリン国立歌劇場客席
当時(1742年)のプロイセン王は、有名なフリードリヒ大王だったが、彼は音楽を大変愛しており、素晴らしいオペラの殿堂を造った。1843年に全焼してしまったが、翌年建てられた劇場が、現在の国立歌劇場の原型となっている。以降、メンデルスゾーンやリヒャルト・シュトラウス、エーリヒ・クライバー(カルロスの父)らもこの劇場の音楽監督を務めた。そして第1次世界大戦後、ドイツの君主制が終焉し、ベルリン・シュターツオパーと名前を変える。ヒトラーがこの劇場をナチスのシンボルのように重要視したため、第2次世界大戦では爆撃によって壊滅的な打撃を受けた。その後1955年に再建されたが、1961年の東西の壁が出来た際、多くの優秀なアーティストは、西ベルリンへ移り住んでしまった。しかし、名テノールのペーター・シュライヤー、バス・バリトンのテオ・アダムら東ベルリンに残り、長い間劇場を支え続けた。東西の壁が壊された後、1992年にダニエル・バレンボイムが音楽総監督に就任、名演出家ハリー・クプファーと造り上げたワグナーの「指環」4部作を始め、数多くの名舞台を残してきた。
オットー・ニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」(1849年)、アルバン・ベルクの「ヴォツェック」(1925年)等を初演した輝ける歴史も持つ。また、オケピットに入っているのは、ベルリン・シュターツカペレ(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)で、ドイツで最も古い伝統を誇り、オペラだけでなく単独のコンサートも数多く行っている。
客席は1,270席とサイズは小ぶり。
ベルリン国立歌劇場オペラ「ジョコンダ」カーテンコール風景
ベルリン国立歌劇場 休憩時のホワイエ風景
ベルリン国立歌劇場外観正面
ベルリン国立歌劇場客席当時(1742年)のプロイセン王は、有名なフリードリヒ大王だったが、彼は音楽を大変愛しており、素晴らしいオペラの殿堂を造った。1843年に全焼してしまったが、翌年建てられた劇場が、現在の国立歌劇場の原型となっている。以降、メンデルスゾーンやリヒャルト・シュトラウス、エーリヒ・クライバー(カルロスの父)らもこの劇場の音楽監督を務めた。そして第1次世界大戦後、ドイツの君主制が終焉し、ベルリン・シュターツオパーと名前を変える。ヒトラーがこの劇場をナチスのシンボルのように重要視したため、第2次世界大戦では爆撃によって壊滅的な打撃を受けた。その後1955年に再建されたが、1961年の東西の壁が出来た際、多くの優秀なアーティストは、西ベルリンへ移り住んでしまった。しかし、名テノールのペーター・シュライヤー、バス・バリトンのテオ・アダムら東ベルリンに残り、長い間劇場を支え続けた。東西の壁が壊された後、1992年にダニエル・バレンボイムが音楽総監督に就任、名演出家ハリー・クプファーと造り上げたワグナーの「指環」4部作を始め、数多くの名舞台を残してきた。
オットー・ニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」(1849年)、アルバン・ベルクの「ヴォツェック」(1925年)等を初演した輝ける歴史も持つ。また、オケピットに入っているのは、ベルリン・シュターツカペレ(ベルリン国立歌劇場管弦楽団)で、ドイツで最も古い伝統を誇り、オペラだけでなく単独のコンサートも数多く行っている。
客席は1,270席とサイズは小ぶり。
ベルリン国立歌劇場オペラ「ジョコンダ」カーテンコール風景
ベルリン国立歌劇場 休憩時のホワイエ風景




