本・エンタメ

2007/03/10

雨傘 〜歌劇場への誘惑(2)〜

 ベルリンの歌劇場を訪れること、それ自体がすでに旅の目的である人たちがいる。お目当ての演目をお気に入りの歌手とともに。そうした特別の瞬間に出逢うために各地からやってくるのだ。そんなこともあってか、劇場ではさまざまな言語が飛び交っている。ときどき和服で現れるご婦人方もいらっしゃるが、そんな颯爽とした姿もなかなか乙であり、様になるものだ。

 特に華やかなのは復活祭のころ。春の陽の長さが、目に見えて伸びてゆき、人々の顔がおのずと輝き始めるこの季節、ベルリン州立歌劇場(Staatsoper Unter den Linden)は毎年、フェストターゲというフェスティヴァルを開いている。この催しは1996年に始まり、2002年にはワーグナーの10作品がなんと2チクルスも上演された。これを観劇した聴衆のうち50パーセントを超える人々が外国からの観客だったのだから、なるほど、さまざまな国の方々がいらっしゃるのも不思議じゃない。たとえばワーグナーの『指環』は4晩にわたって上演される大作なので、隣り合わせになった異国の人同士が顔見知りになり、何かとオペラについて語り合う、それもまた趣のある風景だ。

 さて、ウンター・デン・リンデン通り界隈の一流ホテルは、2つのオペラ座へ歩いてでかけられることもあり、多くの音楽愛好家たちの定宿となっているようだ。ときおり、歌劇場の切符売り場で、立ち襟・臙脂色のスーツを身にまとったホテルの若いボーイたちを見かけるのは、そんな旅行客たちのために切符を買い求めにきているのだろう。売り場の人とは、すでに顔見知りだから、ひとことふたこと世間話。街を歩くときでさえ、すがすがしい出で立ちの彼らの若い顔がほんの少し緩むひとときである。そんなふうに、歌劇場への長い旅へ向かう人々がそれぞれの想いをトランクに詰めているころ、ベルリンでも彼らを迎える支度が始まっているのだ。



 あるホテルでは、その晩、上演される演目に合わせて献立を考えるという話を聞いたことがある。たとえば長いオペラで重い内容のものであれば、料理は軽く、胃にもたれないようなものであるように、といった具合。ときに上演は夜も11時を過ぎることもあるのだからこれは素敵な配慮だと思う。ここには、市内の自宅から出かけてゆくのとは、また違う趣の物語がある。旅に出かけるところから、オペラ座への道のりが始まっているのなら、その物語を人知れず大切に心遣いがあるわけだ。

 ところで歌劇場にある日ふと立ち寄った晩のこと。だいぶ宵も更けていたから、もちろん切符売り場は閉まっているし、がらんとした入り口には、ただ、外に降りしきる雨の薫りが漂っているだけだ。耳を澄ますと劇場内からまもなく最高潮を迎える高らかな旋律がかすかに聞こえてくる。おそらく観客たちはその感動の海に呑み込まれていることだろう。そんな折、そのがらんとした空間へ入ってきたのは一人の若いボーイだった。右手にはいま折りたたんだばかりの濡れた傘を、左手にはまだ濡れていないもうひとつの傘を。

 感動という陶酔への感謝を表すのが拍手なら、その至福を冷まさないようそっと添えられる傘がある。喝采はまもなくだ。








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