アバルト「サソリ」の毒
イタリアは、どんなに小さくてもスピード命、華麗なるアバルト・マジック。
赤い「サソリ」のマーク、「ABARTH」の文字、クルマの好きな人ならきっと強い印象があるはずですね。
特にフィアット系のクルマには、いわゆる「アバルト仕様」というスポーツ・ヴァージョンがあるので、よくご存知でしょう。
アバルト創設者の名前は「カルロ・アバルト」その人。
1908年、オーストリアのウイーンで生まれたカルロ・アバルトは若い時、二輪のレーシング・ライダーでした。

彼の広い人脈の中でも、ポルシェ一家との親交もあり、やがてイタリアでのポルシェの代理店権を手にします。
1946年、当時の天才ドライバー、タッチィオ・ヌボラーリともごく親しい友人でもあったので、イタリアの繊維業界で財をなした大富豪、ピエロ・ドゥシオがパトロンとなり興した、F−1をはじめレーシング・スポーツカーのメーカー「シチタリア」にもタッチしていました。
また、カルロ・アバルトは、並行してバイクやフィアットなどの量産車のスポーツ・マフラーやチューニング・パーツの生産・販売を行うようになります。
しかし、諸事情でシチタリアは数年で解散、1949年、いよいよ自身の会社「アバルト」を立ち上げます。
そしてシチタリアやフィアットのコンポーネンツを使ったスペシャルの製造を開始します。
ひとつの転機は1955年にデヴューしたフィアットの大衆車、フィアット600と、57年にデヴューするフィアット500です。
カルロ・アバルトはこれらのチューニング・パーツを開発し、販売するかたわら、当時流行していた国際耐久速度記録へ挑戦します。
ベルトーネ製のボディにフィアット600エンジンを載せたアバルト・スペシャルは1957年からこの国際耐久速度記録に挑み、数々の記録を樹立していました。
そして1958年2月、アバルトがチューニングしたエンジンを載せたフィアット500が7日間のトライアルをスタートします。
1日目を順調にこなしながら、2日目、3日目に突入すると、「そろそろ壊れるんじゃないか?」と期待する野次馬を尻目に次々と国際記録を更新していきます。
そうなると舞台となったモンツァ・サーキットにはプレス関係が押し寄せるようになります。
そこで、はじめは無関心だったフィアット本社も腰を上げます。
おまけにこの記録挑戦車、見た目は市販のフィアット500とさほど変わりません。
つまり、このトライアルが失敗すればアバルトの責任にすればいいし、成功すればアバルトの技術が優秀なだけでなく、ベースとなったフィアット500の優秀性が実証されると踏んだからです。
7日間のトライアルが終わってみると、6個の国際記録を塗り替えていました。
こうして、アバルトとフィアットには強いきずなが生まれます。
その後、アバルトの速度記録挑戦は約10年間にわたり行われ、113の国際記録と、5つの世界記録を獲得したのです。
アバルトはチューニング・パーツの販売にとどまらず、チューニング車両の販売にも手を広げます。
その中でも強烈な個性を放っているのが、フィアット600をベースに、「お化け」のようにモディファイしたモデルの一群ではないだろうか。
それらはオリジナルの600ccからアバルト特性のクランク・シャフト、ヘッド、バルブ、エキゾースト・システムなどで強化され、排気量を850cc、1000ccまで拡大、レースのカテゴリーに合わせて開発されました。
実際にアバルト社の技術には目を見張るものがあり、同じベースのエンジンから信じられない高性能を引き出していたのです。
小粒でも高性能で、レースでも無敵の性能を見て、いつしか人々は小さなサソリが猛毒を持っているイメージと重なり、「アバルト・マジック」と呼ぶようになったのです。
また、そのスタイリングもすぐにそれと分かる、派手な中にも、独特のセンスで仕立てられていました。
リア・エンジンのフィアット600ですが、フロントに移された大きなラジエター、放熱のため半開きにされたエンジンフード、大きくはみ出したタイヤをカバーするオーバーフェンダー,リアから見ると、大きな冷却フィンの切られたオイルパンに誇らしげに「ABRTH」と彫られていたり、ルーフは赤・青のチェッカー・フラグの柄だったりと、見た目でも「いかにも速そう」と思わせるに十分なスタイルに仕立て上げられています。
この、何でも「カッコ」から入る、いかにもイタリア人が喜びそうなアバルトの「やり方」は大いに受けたのです。
現代のチューニング・カーやドレスアップ・カーの原点ともいえるモディファイで、今でもアバルトをお手本にしているところはたくさんあると思います。
なんでも、当時、ギンギンのメークにギンギンの衣装で決めて、デートで勝負する女性のことを「今日はアバルトみたいだね!」と言ってたらしいのです。
特にフィアット系のクルマには、いわゆる「アバルト仕様」というスポーツ・ヴァージョンがあるので、よくご存知でしょう。
アバルト創設者の名前は「カルロ・アバルト」その人。
1908年、オーストリアのウイーンで生まれたカルロ・アバルトは若い時、二輪のレーシング・ライダーでした。

彼の広い人脈の中でも、ポルシェ一家との親交もあり、やがてイタリアでのポルシェの代理店権を手にします。
1946年、当時の天才ドライバー、タッチィオ・ヌボラーリともごく親しい友人でもあったので、イタリアの繊維業界で財をなした大富豪、ピエロ・ドゥシオがパトロンとなり興した、F−1をはじめレーシング・スポーツカーのメーカー「シチタリア」にもタッチしていました。
また、カルロ・アバルトは、並行してバイクやフィアットなどの量産車のスポーツ・マフラーやチューニング・パーツの生産・販売を行うようになります。
しかし、諸事情でシチタリアは数年で解散、1949年、いよいよ自身の会社「アバルト」を立ち上げます。
そしてシチタリアやフィアットのコンポーネンツを使ったスペシャルの製造を開始します。
ひとつの転機は1955年にデヴューしたフィアットの大衆車、フィアット600と、57年にデヴューするフィアット500です。
カルロ・アバルトはこれらのチューニング・パーツを開発し、販売するかたわら、当時流行していた国際耐久速度記録へ挑戦します。
ベルトーネ製のボディにフィアット600エンジンを載せたアバルト・スペシャルは1957年からこの国際耐久速度記録に挑み、数々の記録を樹立していました。
そして1958年2月、アバルトがチューニングしたエンジンを載せたフィアット500が7日間のトライアルをスタートします。
1日目を順調にこなしながら、2日目、3日目に突入すると、「そろそろ壊れるんじゃないか?」と期待する野次馬を尻目に次々と国際記録を更新していきます。
そうなると舞台となったモンツァ・サーキットにはプレス関係が押し寄せるようになります。
そこで、はじめは無関心だったフィアット本社も腰を上げます。
おまけにこの記録挑戦車、見た目は市販のフィアット500とさほど変わりません。
つまり、このトライアルが失敗すればアバルトの責任にすればいいし、成功すればアバルトの技術が優秀なだけでなく、ベースとなったフィアット500の優秀性が実証されると踏んだからです。
7日間のトライアルが終わってみると、6個の国際記録を塗り替えていました。
こうして、アバルトとフィアットには強いきずなが生まれます。
その後、アバルトの速度記録挑戦は約10年間にわたり行われ、113の国際記録と、5つの世界記録を獲得したのです。
アバルトはチューニング・パーツの販売にとどまらず、チューニング車両の販売にも手を広げます。
その中でも強烈な個性を放っているのが、フィアット600をベースに、「お化け」のようにモディファイしたモデルの一群ではないだろうか。
それらはオリジナルの600ccからアバルト特性のクランク・シャフト、ヘッド、バルブ、エキゾースト・システムなどで強化され、排気量を850cc、1000ccまで拡大、レースのカテゴリーに合わせて開発されました。
実際にアバルト社の技術には目を見張るものがあり、同じベースのエンジンから信じられない高性能を引き出していたのです。
小粒でも高性能で、レースでも無敵の性能を見て、いつしか人々は小さなサソリが猛毒を持っているイメージと重なり、「アバルト・マジック」と呼ぶようになったのです。
また、そのスタイリングもすぐにそれと分かる、派手な中にも、独特のセンスで仕立てられていました。
リア・エンジンのフィアット600ですが、フロントに移された大きなラジエター、放熱のため半開きにされたエンジンフード、大きくはみ出したタイヤをカバーするオーバーフェンダー,リアから見ると、大きな冷却フィンの切られたオイルパンに誇らしげに「ABRTH」と彫られていたり、ルーフは赤・青のチェッカー・フラグの柄だったりと、見た目でも「いかにも速そう」と思わせるに十分なスタイルに仕立て上げられています。
この、何でも「カッコ」から入る、いかにもイタリア人が喜びそうなアバルトの「やり方」は大いに受けたのです。
現代のチューニング・カーやドレスアップ・カーの原点ともいえるモディファイで、今でもアバルトをお手本にしているところはたくさんあると思います。
なんでも、当時、ギンギンのメークにギンギンの衣装で決めて、デートで勝負する女性のことを「今日はアバルトみたいだね!」と言ってたらしいのです。





