007も愛した孤高の英国騎士御用達、アストン・マーティンの復活
「アストン・マーティン ヴァンキッシュ」なんとも男らしいネーミングだと思うのは私だけだろうか。
ちなみにヴァンキッシュとはVANQUISH(=征服する、克服する)ですから、勇ましい名前です。
英国のスポーツカー・メーカー、アストン・マーティンの歴史は古く、その創業は1913年まで遡ります。
そう、クルマの黎明期です。ライオネル・マーティンと、相棒のロバート・バムフォード、2人は始めたばかりのクルマの代理店をまかないながら、自分達でいじったクルマで週末のヒルクライムやレースに興じていました。
よく出かけたのは近所のアストン・クリントン村にあるアストン・ヒルと呼ばれる丘で行われていたヒルクライム競技です。
ヒルクライムとは、ひとつの丘をふもとから頂上めざしてワインディング・ロードを登りきる競技です。
一本道を、一台づつ登り、タイムを競うレースです。クルマで遊ぶ競技として、イギリスはじめ、各地で古くから盛んに行われていたモータースポーツのひとつのカテゴリーで、英国では今でも盛んに行われています。
この、アストン・ヒルクライムで彼らは幾度となく勝利を手にします。
もう、お分かりのように、アストン・マーティンの名前はこの「アストン」ヒルと、パートナーのひとり、ライオネル「マーティン」から由来します。
最初に「アストン・マーティン」というクルマを登録したのが1915年でした。
なぜかバムフォード氏の名前は加わっていませんが、語呂が悪かったのか、さして大きな理由はなかったのではと想像します。
いずれにしても、しばらくするとバムフォード氏はクルマに興味はなくなり、去っていきます。
そして細々とレーシング・スポーツ・カーの製造をはじめていましたが、やがて強力な伯爵の援助を得て、1926年、正式に「アストン・マーティン・モータース」社を興します。
今から振り返ると、アストン・マーティン社はその立ち上がりから強力なパトロンに恵まれては発展し、去られては経営難に陥るということを幾度となく繰り返す運命のもとにあるような気がします。

戦前は1.5ℓ、2ℓを中心とした、グランプリ・カーやスポーツカーを細々と作っていましたが、伯爵の事故死後、経営難にあえぐ1947年、ふたたび強力な救世主が現れます。
実業家にしてクルマ好きな愛好家、デイヴィッド・ブラウンです。ここから始まるDBシリーズは現在DB9まで展開していますが、この「DB」こそ、デイヴィッド・ブラウン氏のイニシャルなのです。
まさに、アストン・マーティンの真の名声は彼によって作られた、といっても過言ではないでしょう。
同時に高級車ブランド「ラゴンダ」も手中におさめたデイヴィッド・ブラウンは、戦前とは違い、アストン・マーティンを一気に「高級スポーツ・カー」に昇格させます。
スポーツカー・メーカーとしては当然の、ル・マンへの挑戦も始まります。
それまでも、1928年、ル・マンには挑戦したことはありますが、本格的に「ワークス」体制で挑んだのです。
その結果、DB2以降ではベントレーが設計した2.6ℓ、DOHC6気筒エンジンを得て、1949年にはクラス優勝を、51年には3ℓクラスで1、2、3位を独占します。
「DB」シリーズとは別に、途中1956年から「DBR」というレーシング・カーが加わります。
ですから、1958年にはDB4とDBR1が同時期に存在していることになりますが、DBR1はDB4から派生したわけではないのでDBR4とはならず、スポーツカーとレーシングカーは、必ずしもシリーズ番号と年代が同じということではないのです。
このDBR1は1959年、ル・マンでロイ・サルヴァドリ / キャロル・シェルビー(後に英米混血マッスル・スポーツカー、ACコブラを創る)組が総合優勝、2位にもモーリス・トランティニアン / ポール・フレール(今でも現役のジャーナリストとして活躍中の90歳!)組がフィニッシュしています。
この年はほかの国際レースでも連勝し、アストン・マーティンによって初めて英国車にワールド・スポーツカー・チャンピオンシップをもたらしました。
そう、クルマの黎明期です。ライオネル・マーティンと、相棒のロバート・バムフォード、2人は始めたばかりのクルマの代理店をまかないながら、自分達でいじったクルマで週末のヒルクライムやレースに興じていました。
よく出かけたのは近所のアストン・クリントン村にあるアストン・ヒルと呼ばれる丘で行われていたヒルクライム競技です。
ヒルクライムとは、ひとつの丘をふもとから頂上めざしてワインディング・ロードを登りきる競技です。
一本道を、一台づつ登り、タイムを競うレースです。クルマで遊ぶ競技として、イギリスはじめ、各地で古くから盛んに行われていたモータースポーツのひとつのカテゴリーで、英国では今でも盛んに行われています。
この、アストン・ヒルクライムで彼らは幾度となく勝利を手にします。
もう、お分かりのように、アストン・マーティンの名前はこの「アストン」ヒルと、パートナーのひとり、ライオネル「マーティン」から由来します。
最初に「アストン・マーティン」というクルマを登録したのが1915年でした。
なぜかバムフォード氏の名前は加わっていませんが、語呂が悪かったのか、さして大きな理由はなかったのではと想像します。
いずれにしても、しばらくするとバムフォード氏はクルマに興味はなくなり、去っていきます。
そして細々とレーシング・スポーツ・カーの製造をはじめていましたが、やがて強力な伯爵の援助を得て、1926年、正式に「アストン・マーティン・モータース」社を興します。
今から振り返ると、アストン・マーティン社はその立ち上がりから強力なパトロンに恵まれては発展し、去られては経営難に陥るということを幾度となく繰り返す運命のもとにあるような気がします。

戦前は1.5ℓ、2ℓを中心とした、グランプリ・カーやスポーツカーを細々と作っていましたが、伯爵の事故死後、経営難にあえぐ1947年、ふたたび強力な救世主が現れます。
実業家にしてクルマ好きな愛好家、デイヴィッド・ブラウンです。ここから始まるDBシリーズは現在DB9まで展開していますが、この「DB」こそ、デイヴィッド・ブラウン氏のイニシャルなのです。
まさに、アストン・マーティンの真の名声は彼によって作られた、といっても過言ではないでしょう。
同時に高級車ブランド「ラゴンダ」も手中におさめたデイヴィッド・ブラウンは、戦前とは違い、アストン・マーティンを一気に「高級スポーツ・カー」に昇格させます。
スポーツカー・メーカーとしては当然の、ル・マンへの挑戦も始まります。
それまでも、1928年、ル・マンには挑戦したことはありますが、本格的に「ワークス」体制で挑んだのです。
その結果、DB2以降ではベントレーが設計した2.6ℓ、DOHC6気筒エンジンを得て、1949年にはクラス優勝を、51年には3ℓクラスで1、2、3位を独占します。
「DB」シリーズとは別に、途中1956年から「DBR」というレーシング・カーが加わります。
ですから、1958年にはDB4とDBR1が同時期に存在していることになりますが、DBR1はDB4から派生したわけではないのでDBR4とはならず、スポーツカーとレーシングカーは、必ずしもシリーズ番号と年代が同じということではないのです。
このDBR1は1959年、ル・マンでロイ・サルヴァドリ / キャロル・シェルビー(後に英米混血マッスル・スポーツカー、ACコブラを創る)組が総合優勝、2位にもモーリス・トランティニアン / ポール・フレール(今でも現役のジャーナリストとして活躍中の90歳!)組がフィニッシュしています。
この年はほかの国際レースでも連勝し、アストン・マーティンによって初めて英国車にワールド・スポーツカー・チャンピオンシップをもたらしました。






